


about missing31
名前:missing31(みっしんぐ・さーてぃーわん)
ゲーム実況者 / 映像作家(ガチ) / 写真家
映像制作会社を経営しつつ趣味でゲーム実況をしているオッサン。
仕事内容は主に音楽MV、CM、WEBムービーや商品プロモーション映像の監督、デザイン、撮影など。
好きなゲーム
真・女神転生if、クロノ・トリガー、Air、聖剣伝説2、ゼノギアス、リンダキューブ、
ダクソ、ワンダ、FF7、FF4、ドラクエ5、マブラヴ、加奈、傷跡、Fate、ひぐらし、沙那の唄などなど。
ゲーム遍歴
ファミコン時代からずっとゲームが好きで、主にアクションとRPGが好きだった。初めて買ったゲームは忍者龍剣伝。
スーファミまでは結構普通だったけど、友達がPC98とか持ってたのでエロゲー道へ落ちた。プレステもやってたけど、ドリキャスとかPCエンジンとかマイナーハードも結構もってた。お気に入りのエロゲーは当時だと同級生とかドラゴンナイト。
東京都三鷹市のTSUTAYAでR15のエロアニメ同級生を借りるのに2時間近くモゾモゾ店内で迷ってたのは私です。
大人になってもAirとかひぐらし、Fate、マブラヴ、などエロゲー探求に余念は無かった。ゲームはRPGとアクションの他にFPSもプレイ(PC)してたけど、当時はPS3くらいの時期でここは飛ばしてる。当時ハマってたのはクライシスとGunzというゲーム。キーボード擦り切れるほどというか実際WASDキーは擦り切れるまでやってた。
仕事が忙しくなってPS3からゲームやらなくなった(詳細は下記)再びゲームを始めるのは、ある程度仕事が軌道に乗ってきた31歳の夏だった。「行方不明だった自分が31歳の時に帰ってきた」という事でmissing31が誕生。
少年時代
いわゆる典型的なクソガキ。人の気持ちとか考えずにやりたいように生きてたけど動物には涙した。運動はかなり出来た方だった。勉強は国語と美術は好きだった。美術と詩は全国で賞とか取った気がする。中学に入ってから割と陰キャ気味になってくる。怖い同級生とか結構いたけど仲いい奴が野球部の有力者だったのでなんとかなってた感ある。友達いなかったら普通に虐められてたかも?「あほくさw」とかすぐ態度に出てしまう性格だったのでわりと目を付けられてた感ある。取りあえず中学の同級生とか今でも会いたくない人多い。
青年期①
15歳で高校中退してマクドナルドでアルバイトを始める。2年くらい頑張ってマネージャーに昇格。
事務処理能力とか全部マクドナルドで学んだ気がする。ここでタバコ吸ったりバイク乗ったりした悪い友達が出来たので
その後の人生が結構暗黒面に落ちた気がする。20歳で映画専門学校に入学するまでの間に、松屋やTSUTAYA(AV担当)
などのメジャーバイトから、八百屋、和菓子屋、本屋、古本屋、漫画喫茶、道路工事、登録バイトなど色々やった。噂の高収入バイトである「薬の治験」などにも手を出し、骨粗鬆症の薬を1日3回鼻から吸い続け採血されたり、火災現場の跡片付け(主に壁のススを紙やすりで落としたり、燃えた家具を運び出したり)などもやった。良い経験?だったと思う。MMOにハマったのもこの時期で、ラグナロクオンラインやリネージュなどここら辺で一通りやって人生の大切な時間をドブに捨て去って本当に後悔している。なんかのゲームやってて2時間待ったボスキャラの死亡時のセリフ「お前は、満たされているのか」が心に刺さりアンインストールする。そして古本屋で知り合った長谷川さんに村上春樹とか大江健三郎、阿部公房、カフカ
などそのあたりを色々紹介してもらって沢山本を読んだ。ゲームのシナリオとか書きたかったのもこの時期。漫画喫茶で働いていたので、寄生獣とか浦沢作品とか面白そうな漫画はほぼ全て読んだと思う。
18歳か19歳の時に雀荘とビリヤード屋でバイトをするも、ここで知り合った人種が暗黒住人だった為に更に性格が悪化。
50歳くらいのヤ〇ザの偉い人からその子分やら半グレみたいな人から地元のヤンキーまで。麻雀やビリヤードという共有の朱美がなければ絶対一生関わる事が無いだろう人々。別に自分はそっち系じゃなかったけどファミレスなどで話をしていると次第に性格が歪んでしまい基本的な人格がここらへんで本当に地に落ちた気がする。中国人が拳銃チラつかせながら店に乱入してくる経験なんかもした。当時はビリヤードのプロを目指していたけど目が悪かったので断念。誰よりも練習していたけど同期にどんどん追い越され結構辛かった。「努力したのに報われない」という経験はこれが初めてだったかも。勉強とかできない事は最初から諦めてたから。今同期はプロでやってる人もいる。
青年期②
その後、19歳の時のセフレの家で発見したスタンリー・キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」に衝撃を受け大検合格→映画の専門学校へ。専門学校は映像学科・映画演出専攻だった。それまで映画なんて全然詳しくなかったけどとにかく専門学校時代は真面目に頑張った。2年間の出席率は98%で授業は常に最前線。毎週新宿TSUTAYAで5本以上レンタルして映画もアニメも観まくった。その甲斐あってか日本撮影監督協会賞など学生時代に色々と評価された事によって盛大に調子に乗って「俺は才能があるわwww」状態になり就職活動をせず23歳でそのまま大学教授がやってる私塾的な映像研究室に入る。糞調子こいたアカデミックな映像なんかをここで作ったりして、美的なセンスと技術的基礎はこの時点で少し下地が出来ていたと思う。
起業
23歳から25歳くらいの時期に、ブライダル業界でバイトをしていた。思い出ムービーとか結婚式紹介ビデオとかバイトで作ってて、元の売値が15万とか20万で毎日それを作ってた。当時の時給は1200円くらいで月20万くらいバイト収入があったが、自分だけで稼いだ分が毎月100万を超えていたので「これ自分でやった方が早くね?」と思って、周りのバイトを引っこ抜いて全員でやめて大っ嫌いな部長に直談判して「1本3万、セットで5万で今後仕事するわ」と言い放ち独立。
糞田舎で毎日の様に結婚式ビデオを量産する生活に入る。2年くらいやって年商1000万を軽く超えるくらいになった。当時かなりノイローゼ気味になってた。何故なら毎日同じ事しかしてないからというのと、何よりも「俺は本気を出せばもっと凄い映像が作れるはずだ!」という謎の気持ちが強くあったから、今の仕事をしている事に精神的にかなり参ってた。仕事が終わるのが夜10時くらいだったので、そこから朝5時くらいまで半年間毎日CGやデザインの勉強をして何とか今の状況から抜け出そうとしてた。
そして勉強しながら作った映像を制作会社にスパムメールツールで送りまくった。何社かにHITして、商業的な仕事(会社紹介や製品紹介の映像)が貰えるようになった。今思うとかなり搾取されてた気がするけど、それでもありがたかった。この時期にMIXIで知り合った色んな知り合いとした仕事でかなりスキルアップしたと思う。27歳くらいの時にフリーから会社法人に。人間関係でゴタゴタゴタゴタして大変だったけど、何とか今8年目?くらい。今は誰もが知ってるアーティストやメーカーの仕事を毎日忙しくやらせて貰って、本当にありがたいと思う。
実況者へ
起業して5年間ほどは365日ほぼ休みなく働いた。大げさじゃ無く年の休みなんて数日だったと思うくらい頑張ってたと思う。一緒に会社を立ち上げたヤツは今はもう居ないし学生時代の俺の元彼女と結婚して(人に聞いた)たりと結構糞な感じだったが、とにかく頑張ってそれなりに安定してきたあたりでPS4を事務所に購入。この時は「休憩しながらゲームとかできる会社って素敵やん?」くらいの軽いノリだった…。ちなみに初めてやったPS4のゲームはWarframeというゲームで、今思うとかなり優秀な神ゲーだったと思う。今でもアップデートが続いてるTPSアクションである。仕事しながら夜中にゲームをする生活が始まる。当時は身内でやったゲーム内容をYoutubeにアップするだけのよくある感じだったが、The Divisionというゲームが結構複雑なシステムだったので友人向けに解説動画を作った所結構人気が出た。「継続は力なり」を信じて動画投稿を開始。彼女にゲーム禁止令食らったり垢バン食らったり仕事で1か月放置したり紆余曲折を経て現在に至る。